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ダウンタウンも一目置く天才?フォークダンスDE成子坂村田渚とは

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フォークダンスで成子坂村田渚 ダウンタウン
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2006年の急死から12年目、2018年で13回忌を迎えるお笑い芸人・元フォークダンスDE成子坂の村田渚さん。

 

芸人仲間からは「天才」と称され、今でもその死を悼む声が聞かれますね。

 

ダウンタウンも一目置いていたという天才・村田渚とはどんな芸人だったのか?

 

突然死することとなった死因について調べてみました!

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元フォークダンスDE成子坂・村田渚のプロフィール

 

村田 渚(むらた なぎさ)さんは、日本のお笑い芸人(ツッコミ担当)です。

 

1971年7月29日に大阪府で生まれ、三重県鈴鹿郡関町(現在の亀山市)で育ちました。

 

身長168cm、血液型はO型。

 

2006年11月11日に35歳でお亡くなりになっています。

 

最終学歴は三重県立上野高等学校卒業。

 

事務所は、ホリプロからフリー、ホリプロコムを経て、ソニー・ミュージックアーティスツに所属していました。

 

芸人としての経歴は、フォークダンスDE成子坂(1989-1999年12月31日)→ピン芸人(2000年-2005年)→鼻エンジン(2005年-2006年)となっています。

 

中学校からの同級生・桶田敬太郎さんと高校2年生の時にコンビを結成。

 

二人で話し合いながらネタを作っては、三重のホリプロにネタ見せを行っていました。

 

高校卒業後は毎月新幹線で東京までお笑いライブに通い、ホリプロお笑い班の研究生として入所。

 

1991年に「フォークダンスDE成子坂」のツッコミ担当としてデビューします。

 

『GAHAHAキング 爆笑王決定戦』では第2代チャンピオンになり、当時の若手の中では珍しいほど早いスピードでその名が全国区に知れ渡ります。

 

バラエティ番組『タモリのボキャブラ天国』シリーズで1994年からレギュラー出演。

 

当時まだ若手だった爆笑問題や海砂利水魚(現くりぃむしちゅー)、ネプチューンらと同様に人気を博しました。

 

このグループの中に名を連ねるなんて…今考えるとすごいメンツですよね。

 

小峠さんも敬愛していた村田さんのツッコミに注目!

今キングオブコントに出ていたら優勝間違いなしですね!

 

1999年に「フォークダンスDE成子坂」解散後は、ホリプロを離れフリーのピン芸人として活動を開始。

 

2015年5月からはソニー・ミュージックアーティスツに所属し、元坂道コロンブスの松丘慎吾とコンビ「鼻エンジン」を結成。

 

M-1グランプリ2005では準決勝まで勝ち残り、翌年のM-1グランプリ2006でも3回戦まで勝ち進みます。

 

鼻エンジンのネタもご覧ください!

ツッコミのキレが秀逸!

 

芸人としての経験を着実に積み重ね、まさにこれからという時期。

 

2006年11月11日未明、自宅マンションにて倒れているところを発見され、死亡が確認されました。

 

とても優しい人柄で、芸人仲間からの信頼は非常に厚かったといいます。

 

彼の死後、たくさんの芸人たちから早すぎる死を惜しむ声が上がりました。

 

特に相方だった松丘さんと桶田さんのショックは大きく、松丘さんは芸能界引退を考えるほどまいってしまい、桶田さんは葬儀で号泣していたそうです。

 

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フォークダンスDE成子坂の村田渚はダウンタウン松本も一目置く天才だった?

 

とにかくお笑いが大好きで、笑いに対して貪欲だったというフォークダンスDE成子坂。

 

特にツッコミの間の入れ方は素晴らしく、芸人仲間の間で「天才」と称されるほどでした。

 

くりぃむしちゅーの上田さんは芸人仲間に「渚には勝てない」と話していたといいます。

 

爆笑問題の太田光さんは、相方の桶田さんについて「あいつは天才過ぎて売れなかった」、村田さんには「渚のツッコミは本当に上手かった」と語っていたそうです。

 

あのダウンタウンも一目置いていたといい、ダウンタウンがすでに人気絶頂だったころ『ダウンタウンのごっつええ感じ』の収録前に村田渚さんのことを話題に挙げて

こういうやつが後輩にいるけど負けへんぞ

と発言してから収録に臨んだことがあると言われています。

 

人柄は温厚で後輩の面倒見もよく、とても人望が厚かったという村田さん。

 

ファンに対しても優しく、出待ちのファンから握手を頼まれた時には手袋を外して握手をしたり、トークライブではファンを気遣っていたそうです。

 

お小遣いが5000円しかなかった時に、貧しい人の為に4000円を募金したこともあったとか。

 

お笑い芸人としても、人間としても、多くの人から愛されていたんだなと感じますね。

 

このまま生きていればもっと活躍できたんじゃないかと思うと、若くして亡くなってしまったことが、本当に悔やまれますね。

 

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突然死した村田渚の死因は何だった?

 

35歳という若さで突然亡くなってしまった村田渚さんですが、死因はなんだったのでしょうか?

 

当時の所属事務所によると、数日前より相方の松丘さんや周囲の人に頭痛などの体調不良を訴えていたといいます。

 

2006年11月12日に自宅マンションですでに息を引き取り倒れていた所を発見され、検死によって、11日未明にクモ膜下出血のため急死していた事が判明しました。

 

最後の出演となったのは2006年12月15日放送の爆笑オンエアバトル。

 

番組の最初と最後のテロップで

鼻エンジンの村田渚さんは11月11日に亡くなられました ご冥福をお祈りします

と表示されたほか、爆笑オンエアバトルのホームページにも訃報が表示されました。

 

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村田渚の元相方・桶田敬太郎の現在は?

 

村田さんの死に深い悲しみを受けた、かつての相方たちは現在何をしているのでしょうか?

 

中学時代の同級生で、フォークダンスDE成子坂の相方・桶田敬太郎さんは1999年末にコンビ解散後、バンド「The 3cm〜」でボーカルTaroとして活動を開始。

 

2004年からは放送作家・構成作家となり、バラエティ番組を中心に、テレビ・イベント・舞台・CMなどの企画・構成を手がけるようになりました。

 

ますだおかだや三原じゅん子のライブのプロデューサーも担当していたそうです。

 

2015年からは作家、演出として若手育成の監督・コーチ・ネタ提供、プロデュースにあたり、再びお笑い関係で活躍されています。

 

フォークダンスDE成子坂のスピリッツは見えないところで生き続けているのかもしれませんね!

 

追記 2020年3月4日:桶田敬太郎さんが、2019年11月23日に48歳でお亡くなりになっていたことがわかりました。

 

死去においては生前本人が家族に「俺が死んでも誰にも言うな」という遺言を遺していたことから、亡くなってすぐには公表されていませんでした。

 

桶田さんは結婚して息子さんもいたそうですが、亡くなる10年前に大腸がんを患っていて、一度完治していましたが、2017年ごろにがんが再発していたそうです。

 

天国で村田さんと再会し、また一緒にコントが出来ているのではないでしょうか。

 

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村田渚の元相方・松丘慎吾の現在は?

 

鼻エンジンの相方・松丘慎吾さんのその後についても調べていきたいと思います。

 

村田さんが亡くなった時には芸能界引退も考えたという松丘慎吾さん。

 

2007年に「村田渚の遺志を継ぐ者たち」として、HEY!たくちゃんらと共に雑誌にコメントを発表。

 

2008年〜2014年はヤマザキモータースと「くらげライダー」を結成。

 

M-1グランプリ2008では3回戦まで進出しました。

 

2011年1月2日に赤いプルトニウムと入籍。

 

「エンタの神様」などに出演していた茨城弁の美人芸人さんですね。

 

2014年5月末にくらげライダー解散後は、妻の赤プルと共に夫婦コンビ『赤プルと旦那』を結成。

 

のちにコンビ名を「チャイム」に改名し、現在も夫婦芸人として活動しています。

 

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さいごに

 

2011年に35歳の若さで急死したお笑い芸人の村田渚さんについてお届けしました。

 

「いつかは自分の番組の司会をやりたい」と考える芸人が多い中で「いつまでも漫才・コントをやっていたい」と言っていたという村田さん。

 

本当にお笑いが好きだったんだろうな〜というのが伝わってきます。

 

今ネタを見ても面白いと思うのはやはり「天才だから」なのかもしれませんね。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました!

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